パースはたった一つのことを理解してれば良い
一点透視図法だとか二点透視図法だとか、消失点、アイレベル……etc, etc
そういった個々の概念は実は、たった一つの原理から導かれる。
それは、遠近法とは、三次元を二次元平面へ射影する試みであるということ。より具体的に言えば、観測者と描こうとする対象との間に、衝立を用意して、観測者の目と物体の各点と衝立とが交差する点が、絵の描画点になるという原理である。これを「透視図法」という。
後はここへ基本的な幾何学的考察を合わせることで、パースについての他の諸概念は勝手に導出される。
しかし、そういった導出を一々最初から行うのは面倒なので、「平行な直線は同一の消失点に収束する」だとかいったいわば「定理」を(証明することなしに)利用しているのが現状である。それはそれで便利であるが、あくまで原理は一つである。
◯点透視「図法」というのをやめた方がいい
また、一点透視図法とか二点透視図法という概念がパースの教科書では常に紹介されるが、どうしてもこれらの「図法」がそれだけ持て囃される理由が分からない。
というのは一点透視図法も二点透視図法も結局のところ、描き方は全く同じ射影を使っているわけで、違いは観測者に対するモノの配置だけである。立方体を正面から見るか、斜めから見るか、さらに見下ろすか、それによってその立方体の消失点が1、2、3と増える、というだけの話である。
二つの立方体があって、それらが一つの絵の中で、一方は一点透視図法、他方が二点透視図法で表現されるということは普通である。
こう考えると、「〜図法」というネーミングからして間違っていると言わざるを得ない。図法というのは本来、絵を描くために用いる(数学的)方法論のことであるが、一点透視図法であれ、二点透視図法であれ、使っている原理は射影であって、両者の間に図法の違いなどないからである。
長い廊下を正面から射影すれば、消失点が1つになるのは数学的には当然であって、それは単に廊下をどこから見るかという話でしかない。
例えば一点透視図法の例として
この最後の晩餐が挙げられる。それではこの絵を図法を変えて、二点透視図法で描くことは出来るだろうか? いや、出来るはずがない。なぜなら、観測者とモチーフの配置が定まってしまえば、誰が描いても(射影という図法を用いる限り)同じ絵にならざるを得ないからだ。キャンバス上の点とモチーフのどの点が対応するかは厳密に数学的に決定されるのだから、当然である。
もちろん、観測者が横に動いて、この情景を斜めから観察すれば、それはいわゆる二点透視「図法」となる。
様子に、射影という絵を描く者に出来るのは、観測地点を変えることか、あるいはモチーフの配置を変えることである。であるから、最後の晩餐におけるダ・ヴィンチの功績というのは
- 歴史的に言えば「透視図法」を完成させたこと。
- 最後の晩餐の情景をこのモチーフの配置と視点で描くようにセッティングしたこと。
である。
イラストレーターにとって、「何をどこから見るか」ということは間違いなく重要であるが、この「どこから見るか」つまり「視点」を設定することが、いわゆる◯点透視「図法」を設定することに対応している。
つまり「◯点透視図法を用いて絵を描く」ことの本当の意味とは、「(代表的な)消失点が◯個になるように視点を設定すること」なのである。
ただ、これは単に「視点を変えると見え方が変わる」ということと言っていることは殆ど変わらない。
そういう意味でいうと、英語のperspective(日本語で「視点」)の方がよっぽど正確に事態を表現していると言える。
パースが正しい絵をどうやって描けばいいか
ここまでで、理論は分かった。自分なりに正しい視点を設定した。では、その視点に基づいて透視図法的に正しい絵をどうやって描けばいいだろうか。
確かに、理論的に言えば、視点を決めてしまえば後は透視図法によって絵は決定される。しかしながら、それはあくまで理論の話。理論が分かったからと言って、それがすぐに実現できるとは限らない。
望遠鏡を月に設置すれば、大気の影響がない、鮮明な宇宙の画像が撮れるのは理論的に全く正しい。しかし、では現実にどうやって望遠鏡を月に設置するかとなると、話は変わってくる。
理論を実践することは、しばしば非常な困難を伴う。
正しいパースで絵を描くことも同じである。視点を決めた後、具体的にどうやって絵を描けばよいかは、これからずっと学んでいかなければならない。(良いヒントが見つかったら、別の記事で紹介することになる。)
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